リンゴは何色?

リンゴは何色?              

                           三 田 千 代 子

二年程前、仕事でアラブ首長国アブダビに立ち寄ることになった。飛行機を降りて空港内を歩いていると、カフェテリアの陳列ケースの中にある緑色の塊が目に入ってきた。こんなところに置いてあるペンキの緑色のような物体は何かと、好奇心に駆られて目を凝らして観てみた。何と緑色のリンゴがガラスのケースの中にいくつも重ねて並べられていたのである。日本の王林のような黄緑色ではない。まさに緑色そのものなのである。アラブのリンゴは緑色なのかと認識を新たにしたが、食指は動かなかった。

日本人がリンゴといって思い浮かべるのは赤いリンゴである。詩に童謡に歌謡曲にと歌われてきたリンゴは、赤くて丸い果物である。スーパーマーケットに並んでいるリンゴを見ると、現実には赤や黄色や黄緑と多彩である。しかも、赤いといっても真紅から黄緑が混じったようなリンゴまであり、赤い色もまちまちである。にもかかわらず、日本人はリンゴに丸くて赤いものというイメージを持っている。子供にリンゴの絵を描いてもらうと揃って赤いクレヨンを手にして丸く描く。この赤くて丸いというリンゴの色と形は日本人の頭には、一対になって刷り込まれている。

こんなことを考えているうちに、5010も前にパリのオルセー美術館で観たセザンヌの『青リンゴ』の絵が思い出された。当時の私は、セザンヌはまだ熟していない青リンゴを描いたものと思って眺めていた。しかし、アブダビで緑のリンゴに出会ったことで、緑といえども熟したリンゴがあることに気づかされた。となると、セザンヌの『青リンゴ』は未完の美しさを描いたのではなく、完熟したおいしいリンゴとして描かれたのかという思いにいたった。そういえば、10年程前に友人と歩いたパリの下町の青果店の店先にいくつもの木箱の中に入ってリンゴが並べられており、赤いリンゴだけでなく、緑色のリンゴが箱一杯に詰められていた。立ち寄った街角の売店で手にした絵本には、男の子がハンモックのようなものに横になって緑のリンゴをかじっている姿が描かれていた。フランスでは、緑のリンゴがリンゴなのだと理解した方がどうも素直な解釈のようだ。

ベルギーのシュルレアリズムの画家ルネ・マグリットも緑色のリンゴを描いた作品を数点残している。例えば、「盗聴の部屋」では、一つの大きな緑色のリンゴが部屋全体を占めている。「人の子」という作品では、低い塀と曇った空をバックに山高帽を被って起立している男性が描かれており、その顔は青リンゴで隠されている。同様の構図が「世界大戦」という作品と「山高帽の男」という作品にも用いられている。「世界大戦」では、日傘を差した女性の顔がスミレの花のブーケで隠されている。「山高帽の男」では、帽子を被って立っている男性の顔の前で一羽の白鳩が羽ばたき、その顔は隠されている。これら顔を隠した小道具に注目すると、マグリットにとってリンゴが緑であることが日常の当然の認識だったのではないかと推察される。つまり、ヨーロッパのある地域の人々は、日本人がリンゴを赤と認識するように、リンゴを緑と認識するのだろうと思われる。

西アジアを原産地としながらもリンゴは、熱帯や寒帯を除けば、世界中にそれぞれの地で新たな種(しゅ)を誕生させてきた。リンゴの種(たね)の形態が、シルクロードを通って西と東に世界中に広がることを可能にした一要因とされている。滑らかな滴の形をしたリンゴの固い種は、馬が食べても消化されず、そのまま排出され、キャラバン隊とともに一日数十キロの旅をして次なる地の土壌と気候に適応して、新たなリンゴをアジアやヨーロッパに誕生させてきた。現在世界では7500以上のリンゴの品種が栽培されているといわれるが、この程度の数の収まったのは接ぎ木という技法を人間が発見したことで、遺伝的多様性に富むリンゴを限られた数の栽培種に育て上げてきたことによる。フランスはモロッコやイランでリンゴ栽培の技術指導を行っており、アブダビで青リンゴに出会ってもおかしくはないのだ。

ここで面白いことに気づいた。「リンゴのような頬っぺの女の子」というと、大方の日本人は「赤くて丸い頬っぺをした元気な女の子」を想像する。しかし、リンゴを赤いと認識していない国々では、この表現ではせいぜい「頬が丸い子」と、その形態を思い浮かべるに留まるのではないだろうか。日本に滞在しているイギリス、フランス、ドイツ、ポルトガル出身の知人に「リンゴの頬っぺの女の子」と言われたら、どのような女の子を想像するかを尋ねてみた。みんな揃って「女の子の頬の形が丸い」ことを連想すると答えてくれた。「リンゴ」という言葉をそれぞれの言語で知ったとしても、その背後にある含意、つまり社会文化的意味を把握していないと、思いもかけない誤認に繋がることになりそうだ。            (1972字)                  

                               2019.4.19 

日本の文化とマスクの装着ー新型コロナ感染が流行する中でー(一)

 新型コロナ感染に世界中が巻き込まれている。ヨーロッパで最初の爆発的感染をみたのはイタリアである。湖北省の中国人夫婦が二〇二〇年一月二〇日頃にイタリアを訪れたことによって感染が始まったとされる。続いて、二月初めにチャーター機武漢からイタリアに帰国した研究者が感染していたことも判っている。チャーター機を二月早々に飛ばしたということは、すでにイタリア政府は新型コロナの感染を認識していたのである。日本でも二月にはコロナ感染に対する警戒感が浸透し、花粉症対応に加えてのマスク利用者が増えた頃である。以後、コロナ感染者は日本でもイタリアでも増加し、日本では三月にはマスクが店頭から姿を消した。にもかかわらず、どういうわけか街行く人はマスクを着けて歩いている。こうした感染を前にしての日本人のマスク姿は先進諸国でも大して変わらないものと思っていた。ところが、イタリア、ミラノの映像をテレビで観て驚いた。日本よりすでに感染数が多く出ているミラノの町の中心ドゥオーモの前をわずかな人が行き交っているのだが、マスク姿は観られない。時にはドゥオーモに続く階段に男女二人が腰かけてハグをしたりして、接触を恐れていない映像が映し出されていた。パリのセーヌ川岸を行き交う人々の光景もミラノと大きな差はなかった。

 

 そこで、数か月前に友人が話してくれたブラジル、サンパウロの観光旅行での出来事を思い出した。喉の弱い友人は宿泊先の売店に夜分マスクをしたまま買い物に降りて行った。その売店に居合わせたブラジル人親子が友人を見て酷く驚いたという。反対に友人は、そのブラジル人親子のリアクションに驚いたというのだ。ヨーロッパ移民が作り上げたブラジルでは欧米文化が踏襲されており、夜、マスクをして店に入ってくる人物は素性を隠した強盗と思われるのだ。あるいは、恐ろしい感染症に患っていると思われるのである。現在日本で英語を教えながら文筆活動をしているイギリス人が、初来日した時、成田空港で目の前を通っていく日本人がマスクをしているのを目にして、日本では大きな病気が流行しているのかと思ったそうだ。またマスクをした相手の表情が判らないので不気味にも感じたという。

 

 そもそもこのヨーロッパ言語由来の「マスク」を日本語として用いるようになったのはいつからなのだろうか。

 

 東京医療用品卸業界の資料によれば、日本のマスクの歴史は大正年代に始まるのだそうだ。当初は工場内での粉塵避けとして用いられていたという。しかし、日本で粉塵を避けるようになったのは大正時代になってからではないだろう。それ以前の生活でも行われていたはずである。神社では新年を迎えるにあたって行う年末の大掃除で、紐のついた和紙で口を覆って煤払いをしていた。この口を覆った和紙にはそれなりの日本語の名称があったはずであるが、現代では神社でもマスクがそれに代わって用いられてしまっている。大正時代に工場で用いられるようになったマスクの用途は限られていたのであるから、当然のことながら一般には普及はしなかった。国民一般に浸透するようになったのは一九一八年の「スペイン風邪」の流行によってである。

 

 第一次世界大戦中に感染した米兵がヨーロッパに持ち込んでパンデミックになったのが「スペイン風邪」であるが、その名の通りにスペインで始まったのではない。戦争当時中立国であったスペインは、戦時にある諸国とは違い、この感染症について自由に報道することができた。そのためにあたかもスペインで発症したと捉えられてしまったからである。一九二一年まで「スペイン風邪」は三回流行し、全世界の罹患者は推定六億人(当時の世界人口二〇億人)、死者は二〇〇〇万人とも五〇〇〇万とも推定されている。「スペイン風邪」がインフルエンザであることが判明したのは一九三四年以降のことである。

 

 発症地とされ米国サンフランシスコで、「予防に九九%有効」と謳ってガーゼマスクの着用が一九一八年に市の条例によって義務付けられた。赤十字社が製造販売すると同時に、リーバイ・ストラウス社も製造に乗り出している。このマスクによって街の風景は一変したために、「店員がマスクを着けていたら客が怖がって購買意欲を失う」とマスク着用に反対する住民も出現した。日本でも一九一八年から感染が流行し、一九一九年九月の第二回の流行からマスクの使用が奨励されるようになった。当時の感染予防ポスターは、マスクの使用とうがいを奨励している。「スペイン風邪」による日本の死亡者は三九万とも四五万(日本の総人口五五〇〇万)とも言われ、二三八〇万人に及んだとされる感染者の多くは貧困層の住民で、感染には社会格差がみられると、当時の『高知新聞』は報じている。貧困層にはマスクの購入そのものが負担になったようだ。       (つづく)

三田千代子

1964字(2020・05・28)